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父の死

by 益子 貴寛

突然の別れ。

お盆休みに入る直前、2016年8月12日(金)の未明、父が急死しました。

0時まえに、父が救急車で運ばれたと、実家の斜め隣、敷地を接する一軒家に家族で住む姉から電話を受けました。それほど切迫した感じではなかったので、わたしはすぐに眠ってしまいました。

翌日、宇都宮に帰ってから見た死亡診断書には、救急搬送された済生会宇都宮病院の医師の筆で、1:00ちょうど、死因は「解離性大動脈瘤破裂」とありました。死亡場所は、病院の住所である宇都宮市竹林町911-1。享年69歳。

母と一緒に救急車に乗り込んでくれた義兄(姉の夫)の話では、救急搬送中に脈拍が急速に下がっていったので、相当厳しい状態だと察したとのこと(義兄は医療従事者)。果たしてそのとおり、病院についたころには、すでに手の施しようがなかったようです。

わたしが父の死を知ったのは、子どもと一緒に北海道に帰っていた妻が、家の電話に連絡してくれた5:00ごろ。明け方の姉からの電話で知り、わたしがスマートフォンの音もバイブもオフにしていると察して、でした。スマートフォンには、たくさんの履歴が残されていました。

あまり驚かなかった、死という事実。

妻から父の死を電話で聞いた瞬間、「そうか、死んだか」と答えました。

驚きは、ほとんどありませんでした。
ただ重苦しい数秒の時間だけが、そこにはありました。

死の二日前、8月10日(木)に、父が調子が悪くなって近所の内科医にかかっていたことを、姉からの電話で知っていました。会社帰りに池袋東口を歩いていた19:30ごろ。わたしは、その着信に悪い予感がしました。姉は姉で、ふだんであればかけないような電話を、わざわざかけてきたのでした。

それは、正確には「予感」というよりも、もう少しリアリティのある感覚でした。姉もわたしも、互いに「覚悟」という言葉を何度か使ったと記憶しています。

二日前に近所の病院にかかったことが、もし事前に伝えられていなかったとしたら。

おそらく、死を聞いて長く言葉を失ったとしても、その後の心理状態にはそれほど影響しなかったと思っています。それは長年、家族として、親子として、父と息子として、遠く離れていても、どこかでつながっていたであろうこと、晩年はあまり精力的ではなく、会うたびに「老い」という印象をわたしに強く残していたことが理由です。

すぐそばに住む姉は、別のかたちで、それを感じていたのでしょう。

最後に父と話したとき。

たしか、父の日に贈ったしゃぶしゃぶ用の牛肉を食べたあとに電話をかけてきてくれたのが、父との最後の会話でした。6月19日(日)の夜。それほど長くは話さずに、電話を切ったはずです。

今年のお盆の前後、妻は子どもと一緒に北海道に2週間強、帰省。わたしは、8月、9月と地方のセミナーイベント出演があるので、お盆休みは最低限にと考え、東京に残ってふつうに出社。宇都宮への帰省は考えていませんでした。

まさか、お盆に入ろうかという8月12日(金)に──。妻と子どもは、北海道での残り10日間の滞在期間を置きざりに、北海道枝幸郡歌登町、旭川、新千歳空港、羽田空港、東京、そして宇都宮へと、妻の両親をともなって駆けつけてくれました。わたしも、けっきょくお盆休みを長めにとったのと同じに。

父は、子どもに「あさひへ」と書いたお小遣い入りの袋を残していました。

お盆に帰ってきてほしかったのか、それとも、どのようなかたちであれ、お盆に会うことを確信していたのか。いまとなっては、知ることができません。

葬儀の手配、亡骸との対面。

父の死を知った早朝、やることはひとつ。葬儀の手配です。
長男なので、母や姉ではなく自分が喪主(施主)として動きました。

少し調べたあと、目ぼしい葬儀社に電話。即決。

プランやお金関係のことなど、大まかなことはわたしが決め、病院から葬儀場への遺体の移動など、現地での連絡係を姉に任せました。

東京を出て、10:30ごろに宇都宮駅に到着。すぐに父の遺体が安置されている葬儀場に向かい、亡骸(なきがら)と対面。肌に血の気がないほかは、ふだんの父と変わりがない、状態がきれいな遺体でした。

ちなみに、後日、姉から共有してもらった遺体搬送車のナンバー。

姉は特別なものを感じて、あわててスマートフォンで撮ったとのこと。

偶然か必然か。

父は三人の孫たちに囲まれて、天に召された。
わたしたちは、そう思っています。

通夜、告別式。

父が死んだ金曜の午後、さっそく葬儀社に行って打ち合わせ。
通夜は一日空けた8月14日(日)の夜、告別式と火葬は8月15日(月)の日中にしました。

土曜も午前と午後に二度ほど、通夜当日の日曜の午前にも打ち合わせ。式の段取りから、供花やお供物の種類と数、お香典への返礼品の中身と数、火葬場の弁当の種類と数まで、決めることはいろいろ。しかし、まったく苦にはなりませんでした。

地元、とちぎテレビや下野新聞の「おくやみ」には、家族葬の(近親者のみで執り行う)旨を載せてもらいましたが、通夜にも告別式にも、父と生前に縁のあった方がたくさん足を運んでくれました。

二日間の通夜、告別式を終えて、出棺。

位牌はわたし、遺影は母、重さのある骨壷は義兄(姉の夫)。
棺の上の花束は、おじいちゃん子だった姉の上の子に持たせました。

位牌を持ったまま霊柩車に乗り、斎場(火葬場)である宇都宮市悠久の丘へ。
火葬。収骨。納骨。

葬儀が終了。

連日、母や姉家族、義兄の両親らとずっと一緒にいられたこと。
ちょっと疎遠になっていた母方の親戚たちと、ひさしぶりに会えたこと。
父の古い友人たちに、きちんとあいさつできたこと。

葬儀を通して、ないがしろにしていたことの埋め合わせが、少しはできた気がしています。

ジージ鳥、あらわる。

父の葬儀後すぐに、家のまわりに見たこともない不思議な鳥があらわれました。

姉から送ってもらった写真です。どうやら実家や姉家族の家のあたりを、この鳥がウロウロしているとのこと。写真はやや遠目ですが、鳥はそれなりの大きさで、だいぶ存在感があるようです。

みんなは「ジージ鳥」と呼びました。

葬儀後、すぐに東京に戻る気にならず、また、多少の事後処理などもあり、数日を実家で過ごしました。その間、子どもや姪っ子とたびたび外で遊んでいたのですが、ジージ鳥を肉眼で見ることはできませんでした。

葬儀から1週間ほどたったいまでも、ジージ鳥が顔を出しているかは聞いていません。

残された家族の、父との別れがたい気持ちの象徴として、それが何度か訪れた偶然でも、もしかしたら幻想の鳥でもよいと、そう思うのです。

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益子 貴寛
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